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鼎談:内田樹×中沢新一×森田真生 開催決定! 『存在の彼方へ〜対話する哲学、宗教、そして数学の世界〜』

2012-01-18

昨年末、内田樹先生を懐庵にお招きし、甲野善紀さん、森田真生さんとの鼎談が実現したこともまだ記憶に新しいですが、再び、内田樹先生が懐庵にいらしてくださることになりました。さらに今回は、ゲストに中沢新一さんをお招きし、内田樹さん、中沢新一さん、森田真生さんによる鼎談が実現することになりました。

内田樹さんのご専門でもあるレヴィナスの思想、森田さんの専門とする関係性と差異から出発する数学の思想、それと中沢新一さんが語る宗教学や人類学の世界がどのように交流し、ぶつかり合い、そこから何が立ち上がってくるのか。「そこにはないもの」の存在感がありありと立ち上がってくるような、そんな時間になるかもしれません。

ご関心のある方は、ぜひご参加ください!!


開催日:3月20日(火)
時 間:15:00ー21:00(予定)
会 費:15,000円
※会費には、懇親会のお食事・ドリンク代を含みます。


【当日のスケジュール】
14:00 筑前前原駅集合
※タクシー乗り合いで懐庵へお越しください。タクシー費用は人数で運賃分割負担をお願いします。
15:00〜18:00(途中休憩を含む) 
鼎談:内田樹×中沢新一×森田真生
『存在の彼方へ〜対話する哲学、宗教、そして数学の世界〜』

18:00〜21:00 懇親会
21:00     解散


お申し込み・お問合わせ: こちらのお問い合わせページからよろしくお願いします。
※メールでお申し込み後、弊社指定口座へのお振込みをもって正式に受講受付とさせていただきます。

お振込先:
西日本シティ銀行 天神北支店 普通 0477243
㈱SaintCross(セイントクロス)代表取締役 大塚聖(オオツカキヨシ)

茂木健一郎×森田真生 懐庵セミナー 開催決定!

2012-01-08

藤井直敬先生をお迎えして開催される2012年第1回目の懐庵セミナーに引き続き、2月18日(土)は茂木健一郎氏を懐庵にお迎えして、学問の未来、人間の未来について、森田真生氏とともに語り合っていただきます!

森田氏は、大学時代に茂木健一郎氏の著作から多大な影響を受けて、それが理系へと転身するきっかけのひとつにもなったそうです。

今回は、懐庵を舞台に森田氏がたくらむ、自然現象を総動員した「新しい行為」としての学問の可能性について、茂木健一郎氏と思う存分語り合っていただきます。

ご関心のある方は、ぜひご参加ください!!


開催日:2月18日(土)
時 間:14:30ー20:00(予定)
会 費:15,000円
※会費には、懇親会のお食事・ドリンク代を含みます。


【当日のスケジュール】
14:00 筑前前原駅集合
※タクシー乗り合いで懐庵へお越しください。タクシー費用は人数で運賃分割負担をお願いします。
14:30〜18:00(途中休憩を含む) 対論:茂木健一郎×森田真生
自然現象を総動員した「新しい行為」としての学問とその可能性
18:00〜20:00 懇親会
20:00     解散


お申し込み・お問合わせ: こちらのお問い合わせページからよろしくお願いします。
※メールでお申し込み後、弊社指定口座へのお振込みをもって正式に受講受付とさせていただきます。

お振込先:
西日本シティ銀行 天神北支店 普通 0477243
㈱SaintCross(セイントクロス)代表取締役 大塚聖(オオツカキヨシ)

藤井直敬×森田真生 懐庵セミナー 開催決定!

2011-12-20

池上高志さん、鈴木健さん、養老孟司さん、甲野善紀さん、名越康文さん、森田真生さん、山縣良和さん、山田うんさん、宇野良子さん、鈴木啓介さんら、様々な分野の研究者やアーティストの方々が糸島懐庵に集った「サファリパーク」から早くも5ヶ月が過ぎようとしています。

あれから懐庵では、毎月、研究者の方をお招きしてレクチャーやトークセッションを開催してきました。
同期現象をご専門にされている千葉先生、宇宙論をご専門にされている小林先生、それから今月の内田樹先生、甲野先生、森田先生との鼎談は記憶に新しいところです。

そんな懐庵セミナーの年明け第一弾が1月14日(土)から開催されます!
今回のゲストは、理化学研究所で脳科学をご専門に研究されている、藤井直敬先生です。


脳と脳との「あいだ」をどう科学的に捉えるか、
関係性と「あいだ」の数学についてこれまでもなんども語ってこられた森田さんと、『つながる脳』の著者でもある藤井先生とのあいだで、どのようなやりとりが繰り広げられるのか!
いまから楽しみです。


ぜひご関心のある方はご参加ください。


開催日:1月14日(土)
時 間:14:30ー20:00(予定)
会 費:12,000円
※会費には、懇親会のお食事・ドリンク代を含みます。


【当日のスケジュール】
14:00 筑前前原駅集合
※タクシー乗り合いで懐庵へお越しください。タクシー費用は人数で運賃分割負担をお願いします。
14:30〜15:30 関係性と「あいだ」を考える数学(森田真生レクチャー)
16:00〜18:00 藤井直敬×森田真生 トークセッション
18:00〜20:00 懇親会
20:00     解散


お申し込み・お問合わせ: こちらのお問い合わせページからよろしくお願いします。
※メールでお申し込み後、弊社指定口座へのお振込みをもって正式に受講受付とさせていただきます。

お振込先:
西日本シティ銀行 天神北支店 普通 0477243
㈱SaintCross(セイントクロス)代表取締役 大塚聖(オオツカキヨシ)

甲野善紀×内田樹×森田真生 鼎談レポート!

2011-12-18

天気に恵まれた冬の糸島懐庵。今日は、内田樹先生を招いてのトークイベントが開催されます。
またファッションデザイナー山縣さんのデザイン塾cocoaメンバーが一足早く集まり、講評会の準備を始めました。
6月からオリジナルの起源をみつめなおすところから始まり、それをデザインした作品を初めて公開する日でもあります。
彼女たちの作品を内田樹先生・甲野先生にデザインの表現に潜む彼女たちの思いや作品から立ち上がる印象について講評をいただき、続々と集まる一般参加者の声をお聴きできた一日が始まりました。

恒例となった甲野先生の薪割り指導、佐世保の野元さんの火起こし体験では、薪がスパっと割れる瞬間の感覚や身体の使い方、火起こし体験は非日常の体験を楽しみました。初参加の方も、慣れないながらもあちらこちらで自由に体験しながら、懐庵ならではの空気に包まれてきました。

そして、少し陽が傾いた時間から、現代思想家内田樹氏、古武術研究家甲野善紀氏、そして数学者森田真生氏の鼎談が始まりました。司会は深町健二郎さんです。
内田樹先生と森田さんが初めて出会ったのは、2007年。内田樹先生が小林秀雄賞を受賞したときだそうです。このご縁も甲野先生によるものだそうです。

今回の鼎談、テーマは何もありません。
お話は、ゾウリムシの『記憶』を始まりに、外界のイメージを自分に刻む生き方、人間は自分の内側にあるものしか外側をつくり出せないこと、決定論、共身体をつくるスポーツ、存在と非存在、手段としての意味・・・など、約2時間の鼎談は、知性と身体性の両方の関係性について繰り広げられました。

森田さんはゾウリムシにも個性があって、見ていると面白いというお話から始められました。
単細胞生物のゾウリムシは、細胞1個で意思決定の連続をしています。脳もなければ、目もないけれど、化学反応のネットワークを持っています。
彼らの意思決定は、餌を追うときや敵がきたときに追ったり逃げたりすること。その瞬間・瞬間で水温が低すぎるところに進み過ぎてはいけないし、敵を判断して逃げなければなりません。それらの意思決定は外界とのつじつまの合う記憶に支えられています。彼らにコトバはありませんが、化学語で記憶を持っているようです。
私たち人間は、50兆個の細胞でできています。たったひとつの細胞でも「記憶」を持っているわけですから、50兆の細胞から構成されている私たちには膨大な記憶が宿っています。DNAのような「古い」記憶、内蔵の配置や骨格構造といった比較的新しい記憶、さらには体内を流れる血液やリンパの流れのような、現在の記憶など、私たちの全身には重層的な「時間」が流れています。

森田さんは「ゾウリムシは、外界の出来事を、体内に刻み込んでいる。それは、外界の刺激によって、自分自身が書き換えられてしまうということに対してゾウリムシが開かれているからこそ可能なことである」、といいます。自分が書き換えられてしまうということに開かれている、変化する用意ができているからこそ、記憶が可能であり、同時に忘却も可能なのです。

例えば、赤ちゃんはあらゆる刺激に反応し、身体のあちこちで時間が流れています。それは、目的があって何かをするというより、外の刺激に開いた結果の反応のようにみえます。

実際、私たち人間は1秒間に1100万ビットの情報を浴びるように過ごしていて、そのうち意識にのぼるのはわずか40ビットです。それくらいわずかな情報だけを取り込んでいます。
数学者の岡潔氏は、「数学は、自然数は1から始まるけれど、1が何であるかは誰にもわからないから、信じることから始めます。だから、心の働きなんです。」と言ったそうです。
そのコトバ通り、森田さんのお話は学校の数学の話という印象はあまりなく、私たちの心の状態をいろんなことと対比しながら気づかせてくれます。


内田先生は、自分の内側で起こっていること、在るものからしか、外側につくりだすことができない、という森田さんの話に対して、具体的な例を示してくださいました。
車のライトは目玉、フロントホイールは歯。海老の形の車ができないのも納得できます。
また入り口・出口も人間の身体だし、企業のビルをみれば最上階に社長室、地下はボイラー室というように、頭と末端の役割を映し出し、作っています。
もし、身体の手足が思考し、頭は他の情報処理の役割といった具合に、身体イメージが変わるとそれに基づき都市・建物・道具が新たにできるとお話されました。

森田さんは、「まったく親近感をもつことができない人工物をつくることは可能だろうか」というお話をされました。数学的な概念は、はじめ定義されたときには、親近感の持てない対象である場合が多く、しかし、その概念も様々な角度から「使用」しているうちに、徐々にその対象のクオリアのようなものが獲得されてくると言います。

直感だけに頼っていると、どうしても親近感を持てるような人工物が生まれてしまう。まったく親近感が持てないような本当の未知を生み出す、そういうある種の狂気を目指すためには、数学や論理の力が必要である、と森田さんはいいます。
「ちょっとした間違いは人間にもできるけれど、決定的なとんでもない間違いをするにはコンピュータの助けが必要である」そんなジョークを引き合いにだしながら、既知の居心地良さを飛び出す手段としての論理の強力さについて、森田さんは話してくださいました。

森田さんは「身体の持っている知性を強く信じているけれど、一方で身体的な知性だけではできない間違え方もあると思う」と、お話されました。


森田さんが高校時代まで本気で続けたバスケットの話から、内田先生に「ボールゲームは宗教儀礼」というおもしろい話をお聴きしました。
ボールゲームは、ゴールに贈り物を届けるスポーツ。それは、自陣ではなく他者の陣にむかって贈ります。英国のバブリックスクールでは、サッカー・ラグビー・クリケット・ボートがマストだったそうです。それは、コトバも交わさず、身体感覚を共有するスポーツだから。
点数をいれる勝ち負けよりも、身体感覚がひろがり、ある人が見ているものを他人が見て、ある人が感じたことを他の人も感じる、そんな一時的な共身体をつくることが目的だったそうです。
それで学ぶことは、支配者になったとき、統治するうえで大切な能力を養うことです。自分自身の感覚を皆に発信できて、自分が実際に見てなくても皆の感覚を言えるようなもの、体幹に送受信能力をもって、統治していることで、それを集中的に鍛えるのがボールゲームのようです。

実際森田さん自身も、バスケットに勝つことが楽しいわけじゃなくて、汗を流す事が楽しいわけでもなかったそうです。山伏でもあった先生がつくる練習の場、針を落とした音が全空間に広がるような張りつめた緊張感のなかでの練習がとにかく楽しかったそうです。点数をいれることより、流れの出来具合に関心があったといいます。

その後、三日三晩続く、終わらないサッカーゲームの話から、終わらない計算のお話をお聴きしました。計算には、止まる計算と止まらない計算があるといいます。そして、実際に計算してみるよりも手短に、同じアウトプットを出す方法がないような計算が無数にあるといいます。


数の世界には、計算可能数と計算不可能数があります。
そして、実は、数直線上に並んでいる計算可能数の割合は0だそうです。これを数学の言葉では「ルベーグ測度がゼロ」といいます。
数直線上のほぼ全ての数たちは、その数がその数である以上に手短かに説明することができない数で、いかなる意味にも回収されず、その数である以上に何者でもない、究極の無意味があります。おもしろいのは、計算不可能数には人間はアクセスできないし、使わないのだから、0%の計算可能数だけを用いて数学を作ろうと考えている人もいるそうです。でもそれでは、数直線の連続性が失われるし、段々近づく微分も使えなくなるといいます。これは、非存在者たちが存在者を支えているということです。

この話を聴いた内田先生は、「レヴィナスだね」と一言おっしゃいました。

その後、トークは生命に移っていきました。
生き残ったものは、生き残ろうとします。でも、生き残った私たちの祖先をたどっていくと、約35億年前の海底に住む単細胞生物です。彼らの時代から35億年経った今までの時間を映画にしてみることを想像してましょう。
すると、極寒の時代、海底火山の爆発の時代も、あらゆる危険を先読みして、逃れてきた特別な予言者のように見えるはずです。生き残ったものから振り返ると、生命は常に生き残るための努力をし、しかもその能力を備えていたように見えるわけです。

私たちは『ネットワークの網の目の一部』とイメージしてみます。すると、私たちの日常には始まりとなる起点があり、終わりの終点や区切りがありますが、それは網の目の一部を切り出した姿だと森田さんは例えました。


たとえば、今日の話を聴きにきて、「つまんない」と思った人は、ここに来た自分の判断のなさや情報収集の悪さを感じる物語ができるかもしれない。かたや、「おもしろい!」と思った人は、こうなると思っていたと自分の判断能力の正しさやそれに関するデータをかき集めて『正しいことをする自分』という物語をつくり、過去の記憶が今の時間と共に再構築されるでしょう。
このようにして生き残ったものたちは、生命の全歴史を再構成することができます。自分の記憶を再構築すると、それを土台に未来を構成していきます。だから、一度危険を乗り越えた人は、そうでない人よりも、乗り越えるチカラが強いと思う。その「思う」は、偶然だよ、というよりは、「思った方がよさそう」です。
生き残った自分が立派に仕事をすることで、「彼らが生き残ったのは意味があるんだ」と死者の鎮魂になること、実際にランダムな偶然であっても、人間は必然性があると思い做して『偶然があたかも宿命であった』と思うようにしながら、意図的に歴史は作られるというお話を内田さんからうかがいました。


森田さんは、『手段』としての意味を考えるそうです。それは『目的』としての意味ではありません。私たちは共有している多くの意味があります。遺伝子もそのひとつです。でも、それを宇宙にもっていっても意味はなく、記憶を共有しているモノ同士で通じあうものであり、ボクらのなかで交わされるもの。だから、意味はつくり変えることができるとお話されました。

3.11の震災以降、原発は大きな問題として、私たちの目の前にあります。
賛成か、反対か、ではないもう一つの「第三の選択」が必要だと甲野先生はおっしゃいました。それは、想像もできないぶっとんだモノであり、とても身近に感じられるような選択。コトバで表現できること、できないことを、技を通してお示しくださいました。

その後、トークは人間の二足歩行が実は車輪よりも効率がいいという事実や、お能のすり足の歩きにくさの理由など、身体と環境の関係を感じるお話をお聴きしました。そして、頭を通して考えることと、身体を環境においてみて、必然的にそうせざるを得ない状況で考えることは全く違うことを気づかせていただきました。

最後に参加者からの質問に丁寧にお答えいただき、鼎談は無事終了しました。

質疑応答では、「何かないか?」と知恵を絞るとき、追いつめるだけ追いつめて、フリーハンドを与えない現状や、教育における支配欲やコントロールしたい思いについて、ご回答いただきました。
例えば、3人よれば文殊の知恵というのは、3人もいれば1人では思いつかなかった”まさかのアイデア”にたどりつくことや、教育とは成長しろ、成熟しろと人を支配した結果、支配されなくなることで、教育者は自分の仕事が成功すると自分が要らなくなる仕事だということ。それは、基本はある限定的なルールのなかで強制することだけど、それを通して自分がもっているフリーハンドが使えるようになることだし、親は親が要らなくなるよう子どもを育て、医者は医者がいらなくなるよう健康にするものだとわかりやすくお話いただきました。

その後、懐庵の名物にもなった、羽釜炊きのご飯と手作りの料理そして未来来の大智さんによるドリンクサービスとともに先生方と参加者の懇親会が始まりました。
懐庵のご主人の家のなかで、薪ストーブで暖まりながら、懇親会は第二部のトーク会場として盛り上がりました。

東京からご参加いただいた先生方、ご参加いただいた皆さま、大変ありがとうございました。

Mind & Life Seminar(12月)レポート

2011-12-16

今年6月から始まった全6回のMind & Life seminarも先月一区切りし、今日は、一年の集大成です。

概念の再設計による「世界」の再構成、が森田さんの一貫したテーマであるように思います。

森田さんがなんどもおっしゃるように、私たちは見ているものを信じているというよりは、信じているものを見ている。だから、何を信じているか、が変われば、何が見えているかも変わるはず。何が見えているかが変わると、何を自分たちの外側につくるかが変わるはず。

私たちが何をどのように信じているかを規定している、概念の構造の再設計こそが、森田さんが数学を通して目論んでいることのようです。


●● 直線が発するメッセージ ●●

「直線は点の集まりである」と私たちは学校で教わりますが、この考え方の起源は意外にも浅い。実は、このような考え方が定着したのは、19世紀以降のことだといいます。

19世紀末に、カントールという数学者が「集合論」と呼ばれる数学を整備し、これによって、あらゆる数学的対象を点の集まりとして理解する理論的な枠組みが確立されました。そうして、直線もまた、点の集まりとして理解されるようになったのだといいます。

しかし、よく考えてみれば、点というのは「大きさも長さももたないもの」なわけですから、長さを持たない点がたくさんあつまると、長さが生まれるというのは、なかなか突飛な発想です。私たちが、当たり前のうちに信じてしまっているほど、当たり前でないことのようです。


小学校などで何気なく教わった「数直線」という概念も、よくよく考えてみると、なかなか深遠な対象です。私たちは、素朴に、数直線とは、数がびっちりと並んだ線のことであると学校で教わりますが、ひとつひとつの数がどこにあるのか、というのを指定しようとすると、無限の精度が必要になってしまいます。

例えば、0.333333….という数ひとつとっても、これをほんとに言い切るためには無限の時間が必要です。数というのはあまりにも奥が深く、有限の時間内では決してアクセスできないような何かなのです。なので、私たちは例えば「1÷3」という計算規則で0.3333….という数「そのもの」を置き換えてしまうということをします。そしてその計算規則を1/3という分数を使って表記するわけです。

こういうふうに考えると、数そのものというのは、いつでも決して到達できない理想的な「極限」であって、数直線は、あらかじめ存在する数の集まりというよりは、いくらでも「数」に近づいていける潜在性を帯びた場所、という気がしてきます。実際、0.3といえば、0.2でも0.4でもないよ、0.33といえば、0.32でも0.34でもないよということを言っているのであって、数直線というのは存在の集合というよりはむしろ、ひとつの壮大な差異の集合であるというべきなのです。

森田さんは、存在の世界の根底には差異のネットワークがあるのだ、といいます。存在から出発するのではなく、差異から出発する語法を開発しなければならない、と。

例えば、巨大な真っ白の壁があって、そこに何一つ書かれていなかったら、私たちはそこに壁がある、ということすら分からないでしょう。しかし、その壁に一点、黒い染みがあれば、その途端に私たちは、その壁の存在とその黒い染みの存在に気づくことができます。
差異なき存在は、私たちにとっては空(くう)です。

興味深いのは、「差異はいかなる場所をも占めない」という事実です。白い壁と黒い染みの差異が、われわれを「覚醒」させるわけですが、その差異はいかなる場所も占めない。なぜなら差異は白い壁にも、黒い染み自身にもなく、壁と染みの関係性にあるからです。

したがって、差異から出発する語法を開発するためには、場所から出発しない思想、ということを構想しなければなりません。


●● 私から始まる科学から、外側から始まる科学へ ●●

関係性から切り離された「場所」から出発する語法というのは、17世紀のデカルトにまで遡ることができます。デカルトは『省察』という書物の中で「方法的懐疑」ということを徹底しました。これは、方法として懐疑を徹底する、という立場で、デカルトは実際「少しでも疑いの余地のあることは、ことごとく疑う」ということをしました。

そうやって、懐疑を徹底し始めると、まず外界はただちに怪しいということになります。世界は夢かもしれないし妄想の産物かもしれないわけですから、外界の存在を保証することなんてできません。そこで、デカルトは自らの哲学を生み出していく出発点において、外界を捨ててしまったのです。

外界を捨てると何が残るかというと、内的な世界、すなわち感情や理性ということになります。しかし、感情や理性も疑わしい。そうやって、すべてを疑っていくと、最終的には、それを疑っている何っか(cogito)しか残らない、というのがデカルトの出発点でした。


外側から世界を捨てていった結果、最終的にぎりぎりのところで、残ったのが「私」というわけです。これは、あらゆる数学的対象を「点」という極限まで切り刻んでしまうというカントールの方法に似ています。

とにかく、デカルトは外界を捨てることから出発し、その結果として、「私」という一点から世界を再構成することを余儀なくされました。

しかし、デカルトが最初に否定した「外部」をこそ出発点としなければならない、というのが森田さんの主張です。


●● 記憶や関係性について ●●

人間の身体はおよそ50兆個の細胞から構成されていますが、世の中には細胞がひとつしかないのに立派に生きている生物(=単細胞生物)がたくさん存在します。
単細胞生物、例えばゾウリムシなどは、常に膨大な「意思決定」をしています。餌を追いかけていて逃げられているときに、諦めるべきか、まだがんばるべきか。餌を追いかけていたら水温が下がった。退却すべきか、我慢すべきか。

脳も目も耳もないゾウリムシが、このような膨大な意思決定をどうやってこなしているかというと、ゾウリムシは体内にある種の「記憶」のメカニズムを持っているのです。外界の刺激に対して、体内が化学的に反応する。そうした反応が集積して、ゾウリムシの体内は、次第に外界に「似てくる」のです。

とにかく、ゾウリムシの体内は、外界と接続されていて、ゾウリムシとそれ以外というように簡単に切り離せるようにはなっていない。世界の根底には、ただひとつの大きなネットワークがあって、それを切り出したときに、例えば「細胞」や「個体」という構造がはじめてみえてくるのです。


●● 関係性からなるネットワーク ●●

とはいえ、関係性の網、ネットワーク自体の全体を認識することは難しいものです。それは、始まりがないし、終わりもないから、どこを起点に考えていいものかわかりません。でも、ネットワークの一部を切り出してくると、木の枝のように原因と結果の連鎖がみえ、時間の流れが現れてきます。両者は、全体と部分の関係ですが、お互い支え合っている関係なので、両方の見方を養うことが大切です。「全体=直観」であり、「部分=論理」の世界ともいえるかもしれません。全体をみるときは、パッとみて「あ、わかった!」という感覚で、時間が流れておらず、論理の方はsequentialに時間が流れています。直観が論理を支えるし、論理が直観を支える。だから、両方を育てることで思考が育つだろうということをお聴きしました。


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●● 無駄なモノをつくりだすこと ●●

進化論で、ダーウィンは、自然淘汰(natural selection)について唱えました。
今、生きている私たちの祖先をさかのぼって、母親を35億年くらいたどっていくと海のなかの単細胞生物になります。その頃から今に至るまでを1つの映画にして1秒を100万年くらいに再生してみると、あらゆる困難を予期している存在に見えるはずです。それは、急に寒くなって氷河期がくる前に寒冷対策をし、海底火山が爆発する前にどこかへ逃げる、その姿はおそらく危険を予知する予言者のようにみえるでしょう。生き残った私たちは、生き残った方から見ると、あらゆる困難を先読みして対処している存在に見えます。でも、実際には、生命のほとんどは生き残れなかったものたちです。


ダーウィンは、自然淘汰だけでなく、性淘汰(sexual selection)の重要性を強調した人でした。
メスの気をひかないとオスに子孫は残せない。自然に打ち勝つだけでは、子孫を残せないのです。

自然淘汰はいわば垂直方向の時間の世界ですが、性淘汰は水平方向の時間。下から上に流れるsequentialな時間だけではなく、空間的な「縁」が紡ぎ出す横方向の時間がある、ということにはじめて気付かされました。垂直方向の時間と水平方向の時間が互いに縺れ合いながら、再帰的に紡ぎだされていく時間発展のダイナミクスに思いを馳せました。


●● 2つの世界観 ●●

部分は論理的でレゴを積み立てるようにできる構成的な世界観、全体というのは直観的で、まず全体として在るなかに後から個別性が立ち上がってくるような構造的な世界観。
冒頭にお聴きした直線の例にあてはめると、直線が点の集まりだというのは直線を構成的に見ていて、直線が差異の集まりで、段々何かに近づいているモノの集まりだというのは構造的な見方です。

集合論は、数学を構成的に把握します。
では、構造的は発想の数学はどうやって作るのでしょう?フォン・ノイマンが構想した「ゲーム理論」には、ひょっとしたら「構造的数学」という目論見があったのではないか、といいます。

フォン・ノイマンがゲーム理論を提唱した際、友人に「そのゲームっていうのはチェスのようなゲームかい?」と尋ねられ、「チェスは明確に規則が与えられた計算プロセスにすぎない」といい、自分がしたいことは、「読み合いがあり、裏切り合いがあり、信頼し合いがあり、さらに戦略がある。そんなヒトとヒトの推論の再帰性が関わってくるような、そういうゲームを私は考えたい」と答えたそうです。


再帰性とはどういうことでしょうか。
例えば高校で教わる階乗の計算を思い出してみましょう。

階乗(factrial) n! これは、3!=3×2×1、というような計算です。
これをコンピュータに教えるときは、n!=n×(n-1)!とします。つまり、階乗を定義するためには、階乗を使わなければいけないのです。

このように、自分自身を定義するのに自分自身を必要とするような系のことを再帰的な系といいます。


●● 非存在の存在感を立ち上げる大切さ ●●

森田さんは、知の本質は、未知を知で覆い尽くしてしまうことではないと言います。

知と未知の境界にこそ、学問の本質があるのではないかと、ロウソクの炎に例えて教えていただきました。「知」はロウソクの炎で、「未知」はその周りにあるもの。燃えているところと、燃えていないところの間に、知的発見や知的独創があり、学問の本質は炎が温度が最も熱い外側にある。この蝋燭のたとえは、もともと岡潔さんがよく持ち出したたとえだそうです。

科学がやることは、未知を知で覆うことではなく、知の稼働域と柔軟性をあげて、運動神経をよくしていくこと。一方で、未知の存在感を立ち上げていくことも、それと同じくらい重要なことであろう、といいます。知の可動域を広げていくとともに、未知の存在感を立ち上げていく。そうして知と未知のインターフェースに、メラメラと燃え上がる「知的悦び」を立ち上げていきたいと森田さんは言います。まさに糸島の懐庵での企画は、知の稼働域を拡げるのが科学者で、未知の存在を感じさせくれるアーティストの存在が混ざり合う実験・実践の場だといえます。

命は、何もかもが、ひたすら増えればいいわけではありません。呼吸は吸って吐くし、体温も上がったり下がったりするし、お腹も空腹なら食べるし、お腹いっぱいなら食べるのをやめようとします。「真ん中」でいたいものです。なのに、数値化されて定量化されると、貨幣のようにあればあるほどいいとなります。
本来生命は増えるばかりを望みません。なので、「知」も「知るコト」と「知らないコト」を行ったり来たりします。炎も揺れ続けます。自信をもったり、不安になったり、嬉しくなったり、悲しくなったり。自信を持ち続けよう、嬉しいままでいようという方が不自然で、行ったり来たりするのが命らしさ。真ん中に留まり続けようとするのが命で、それを表現した文字が”記憶”の「憶」です。

ゾウリムシの体内に刻まれた構造は、生命の記憶です。ゾウリムシにとって、記憶は外界の像を体内に刻むこむこと。ゾウリムシのなかをよく観察したら、どんなところに住んでいたかの環境を知る事ができます。彼らがそれをできるのは、動き続けて、外から与えられる刺激に対し開かれているから。
生命は、自分の周りの環境を自分自身に映しこんでいます。
赤ちゃんは自分を世界にさらして、あちこちの刺激に対応して、時間がたくさん流れます。そうすることで世界をどんどん自分の中に取り込んで、世界の像を自分のなか持つことができます。一方、大人は自分のアイデンティティを持つことで自分を守り、意味を守るうちに単線的な時間の流れになっていきます。


●● どんな見方をするか?で、世界も生き方も変わる ●●

森田さんは、人間が成熟して、やがて、生きているこの世界がなんて素晴らしい場なんだ!と生きていることに恍惚として、あまりにも生きることに夢中になって、生きることすら忘れてしまう。そういう未来を夢見ているそうです。環境問題で滅びるわけでも、核戦争で滅亡するわけでもなく、生きることに恍惚とするあまり、生きることすら忘れて死んでいく。そういうことがありえたら、どんなに素晴らしいだろうか、と言います。

確かに私たちは、生き残ること、存在し続けるという価値観にしばられています。
10人いたら、10通りの世界のイメージがあります。そして、人間は外のイメージだけでなく、自分のイメージを持ち始めました。人間は隠す能力が上がり、痛みも通じないくらいコミュニケーションは切り離されてきました。でも、ゾウリムシにも「仲間同士のイメージ」は持っています。人類全体より、「私」の感覚が強くなり、「世界の知覚」より、「世界を知覚している自分自身を知覚」するのが人間。その世界に私がいるということをイメージする存在になってしまっているようです。
世界のありのままを自分のなかに描くゾウリムシからレイヤーがあがって、「世界のありのまま」+「世界のなかにいる自分」、さらには「その関係性についてのイメージ」まで描くようになり、人間がアクセスできる限られた範囲のなかで意味を与えるようになりました。
でも、本当は、私たちの存在は非存在に支えられ、過去は現在と共にあると実感できたら、まるで赤ちゃんがまるごと全身で世界を感じ取るように、本当に些細なことに全力を尽くす生き方をつくり出すのではと思うそうです。


私たちは見えるものが全てだし、それを信じて世界をつくりだしています。
でも、その「みかた」を実は日常のなかで養っていて、それ自体を作り直せば、目の前に映し出される世界も変わってくるだろうと少し感じました。全体と部分のなか、今の日常は、論理的につじつまの合う話が正しく、それにひっぱられる存在です。それが世界の一部だと本当に実感がわいてくると、もっと外を自分に取り入れ、映しだし、ネットワークの網の目を感じられるかもしれません。
そんな見方が感じられたら、実感のない大きなことを掲げるよりも、目の前の些細なことからも、取り入れることができることがたくさんありそうだし、何かを諦めたり、後悔するより、それは決定論的に決まっていたことで、これから先にはまた新たな自由と豊かな世界が拡がっている可能性を感じることができそうです。

今後、Mind & Life seminarは、糸島懐庵で展開される予定です。
今日伺った『知』と『未知』が出会う場で、実験的に繰り広げられるレクチャーが楽しみです。

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