幸か不幸か、私も、この文章を前にしているあなたも、
ヒトとしてこの世に生まれてきた。

世界を見回してみると、石ころがあれば、太陽があり、ミミズもいれば、楓の樹もある。この世の中には様々な存在の形式があるが、その中でも私たちは「ヒト」という特異な形式で「いま、ここ」に存在している。

人として生きるとは、どういうことだろうか。

もとを正せば、石ころも、太陽も、ミミズも楓の樹も、私たちも、みな同じ場所から生まれてきたはずである。それが、長いながい宇宙の歴史のなかで、それぞれがそれぞれの時間を背負い、それぞれがそれぞれの存在の形式を獲得してきた。

私たちの遠い祖先は、およそ40億年前の地球の海のなかで、はじめて「自己複製」ということを始めた特殊な高分子(=核酸)であると言われている。物質のみからなる原始地球上で、これらの高分子はそれぞれ個性(独自の塩基配列)を持つという意味で、それまでにない、新しい存在の形式となった。

個性を持ち、その個性を自己複製によって継承していく方法を編み出したこれらの高分子たちは、あるとき、おそらくはなんらかの偶然により、自己複製のための素材やエネルギーを囲い込むための「膜」を作り出すようになった。こうして、地球上はじめての「細胞」が誕生し、同時に、地球上ではじめて「内側」と「外側」を区別する存在が出現したことになる。

ここで生命40億年の歴史を振り返るつもりはない。とにかく、その後も私たちの祖先は、途方もない時間をかけて紆余曲折を経ながら、決して平坦ではなかったであろう進化の道程を辿ってきた。その過去から連綿と続く「生命の記憶」として、私たちはここに存在しているのである。
中でも私たちヒトは、同じく太古から連綿と続く記憶を背負うその他の地球上の生きものたちにはなかった「心」を持つ存在として、他の生命がそれまで経験したことのない、未知の生を生きはじめるようになった。私たちが「心」を持つようになったのは、ここ数千年くらいのことであろうと言われている。

生命40億年の歴史のなかで、心の歴史がせいぜい数千年とするならば、いきいきと全身を協調させて動きまわるゾウリムシやアメーバなどの単細胞生物に比べて、私たちヒトが、あれこれといつまでも思い悩んだり、「あたま」と「からだ」がちぐはぐでなかなか統率がとれないのも、ある面では仕方がないように思える。
私たちは、心を持つようになってからまだあまりにも日が浅いのだ。