これまでそうした分野を敬遠していただけに、読み始めてみると次々に発見があった。 生物の骨格の構造が、進化という時間の刻印であり、ひとつひとつの生命が、40億年来脈々と続く時の記憶なのだ、ということを知った。

そして、時間と生命とは独立な現象ではなく、個体と環境のあいだの調和をなんとかとろうとしながらも、決して調和も安定も達成されることがないというその不安定を契機として、否応なく流れはじめた時間、その時間そのものが生命なのだということを思うようになった。

なによりも、生命が過去40億年間に迎えてきた数々の危機や矛盾と、その矛盾を乗り越える生命の方法に驚嘆した。生命の進化は決してスマートでエレガントなプロセスなどではなく、次々とやってくる矛盾たちを丸ごと抱え込んでしまい、そのまま何か止むに止まれぬ力に導かれながら前進を続けるモンスターのようであった。1

生命は何とか生きようとしている「のに」常に危機に晒されている、というよりは、危機や矛盾や不安定に晒されている「から」生命という時間が流れているのだ、と思うようになった。

スピノザは生命の本質は「コナトゥス」だといい、三木成夫は生命の「記憶」ということをいい、現代生物学は「ホメオスタシス」ということをいうが、「自分自身を維持し続けようとするはたらき」に生命の本質を見出すということは、裏をかえせば、それだけ自分自身を維持し続けることが困難であるということでもある。
存在の不可能性そのものが契機となって、否応なしに、ころころと坂道をこらがり落ちていくように流れ始めた時間が生命なのである。