3月11日の午後、僕は福岡の大濠公園で、iPhoneの「ゆれくる」というアプリを通じて、地震の報知を受けた。すぐにtwitterを開くと、事態が予想以上に深刻であることが、次第に分かってきた。
youtubeにアップされた津波の悲惨な映像を見ながら、そのとき僕の頭を過ぎったのは「有時」ということだった。
『正法眼蔵』は、僕の部屋の本棚の、すぐ手が届くところにいつも並んでいる。すぐ手が届くところにありながら、なかなか手が届かない。もちろん内容が難解なこともあるし、何かこの本を開くにはしかるべきタイミングというのがあるような気がしていたからだ。
「有時」はこの『正法眼蔵』75巻本の20巻目にあたり「いはゆる有時は、時すでに有なり、有はみなこれ時なり」という一節ではじまる。
僕は地震の報知を受け、twitterで次々と流れる情報に圧倒されながら、ヒトという存在が背負っている「時」ということを、いままでになくリアルなものとして感じ、ふとこの「有時」ということばがあたまに浮かんだのだ。
僕らは宇宙の片隅の地球上で「いま、ここ」を生きているつもりでいるが、本当は過去から連綿と続く「時」を背負った存在である。 マグニチュード9.0の地震と、10mを超える津波の映像に、改めてそのことを思い知らされるような気がした。
それから僕は、三週間福岡にいて、解剖学や細胞生物学、進化論や地球科学の本を片っ端から読みあさった。
そういえば、僕が大学に入ったばかりの頃、ある先輩に「森田は進化論とか勉強した方がいいよ。森田の世界には時間の概念が欠けている」と言われたことがある。
先輩の言っていることはもっともであった。
数学は、時間とは無縁の世界を扱う。ある瞬間成り立っていた定理が、別の瞬間には成り立たなくなったり、ある命題の意味が時間とともに変化していったり、ということがあっては困るし、そういうことの起こりえない世界を取り扱うのが数学とも言えるのだから。
当時、数学を勉強しはじめたばかりで、時間の流れとは独立な世界と向きあう数学にすっかり夢中になっていた僕は、先輩のアドバイスもほどほどに、進化論の勉強などに手を出すこともなく、引き続き数学に没頭した。
そもそも、当時は数学以外の本に手を伸ばす気が起きなかったのだ。
それが、地震の報知を受け、気づいたら解剖学や進化論や細胞生物学の本を片っ端から読みはじめていた。いよいよ自分の思考に「時」を導入する時が来たということだったのだろう。