神経科学者のアントニオ・ダマシオ氏は、これまで数々の著作を通して、意思決定など高度な認知において情動が果たす役割や、情動と感情の関係を神経科学の観点から論じ、心のプロセスの身体化された側面を描き出してきた。

ダマシオはこれらの議論の中で情動と感情を明確に区別し、情動は身体、感情は心を舞台にして展開される過程であるとしている。例えば、恐ろしい光景を目にしたときに、身体が硬直したり、瞳孔が開いたり、汗があふれだしてきたりするが、こうした身体に直接表れる変化を「情動」と呼び、これらの変化を「恐怖」として感じ取ることを「感情」と呼ぶ。身体の変化そのものを情動と定義したことにより、感情や意識を持つかどうか定かでないゾウリムシやアメーバなどの単細胞生物にも、情動を認めることができることになる。
ダマシオは、この情動がホメオスタシス機構の延長として、生物の認知を支える重要な機能を果たしているのではないかと主張している。

このことをもう少し詳しく見てみよう。

17世紀の哲学者であるスピノザは、生命の本質は「conatus(コナトゥス)」であると言った。コナトゥスとは、自分自身を保存しようとする執拗な努力のことである。
例えば、ガラスのコップは生き物ではないから、ひとたび割れてしまったら、自らの力でもとに戻ろうとしない。一方で、私たちの身体は、負傷をしたり病気になったりするが、身体のもともとの状態に戻ろうとする生命の作用によって、傷口が徐々に修復していったり、風邪から快復していったりすることができる。

現代生物学では、生物がこのようにして自分自身を維持し続けようとする自己調節の作用のことを「homeostasis(ホメオスタシス)」と呼ぶ。

低次のホメオスタシスは、単細胞生物から私たちのような高度な多細胞生物にまで共通の調節作用で、代謝調節や免疫反応、あるいは特定の刺激に対する接近や退避などの基本的反射を指す。こうした低次のホメオスタシスが基礎となって、次第により高次のホメオスタシスを形成するようになる。

例えば、身体が支障なく機能しているとき、身体の骨格は弛緩し、顔には自信や幸福の表情が表れ、エンドルフィンが生産される。こうした一連の作用やそれに関わる化学信号は「快」という経験を形成する。「快」の経験や「苦」の経験は、低次のホメオスタシスを基盤とする、より高次のホメオスタシスだと考えられる。

こうしたホメオスタシスの階層構造の最上部に位置するのが情動(emotion)である。生命は自らを維持するために、外界の刺激に対して種々の反応を示すが、そうした身体レベルでの反応の複合的な総体として、喜び・哀しみ・恐れ・プライド・恥・共感・愛・罪悪感、などといった情動が立ち上がる。