このようにして構成された自然数のシステムを使って私たちはどのように計算をしているのだろうか。Dehaeneらによれば、私たちは脳そのもに備わっている複数の能力と、構成された数学的概念とをハイブリッドに統合して、脳と数学との相互作用の中で数学的思考を実現しているのだという。
実際、単純な計算の過程を見てみても、そこには下記のような複数のプロセスが関与していると考えられる;
1. 1の1らしさ、2の2らしさ、3の3らしさ、4以上の4以上らしさを識別する、生物としての基本的な能力
2. 量を概算できる生物としての能力
3. 数を表すことばを用いるという言語能力と、数を表す語はそれぞれ別々の数に対応するのだという知識
数学の命題が、単純に脳の言語に翻訳されて、まるでコンピュータが計算式を処理するように、脳の中の閉じた過程として数学的思考が進行する、という古典的な見方に対して、Dehaeneらが提示するのは、脳の外側に構成された数学と脳そのものとの相互作用の中で数学的思考が展開していくという動的な数学観である。
このような見方を支持する興味深い実験がある(Dehaene 1999)。
どのような実験かというと、ロシア語と英語のバイリンガルの子どもたちに、ロシア語か英語の一方で、2種類の簡単な計算(正確な計算と曖昧な計算)のトレーニングをさせたうえで、ロシア語と英語の両方で計算問題を実際に解かせてみるのである。正確な計算では、例えば”Four + Five”と言われたら”Nine”か”Seven”のうちどちらかを答えさせられる。一方、曖昧な計算では、”Four + Five”に対し、例えば”Eight”と”Three”の二つの選択肢が提示される。
興味深いことに、曖昧な計算については、トレーニングされた言語と出題された言語とが同じだろうが異なっていようが、パフォーマンスに差がでなかったのに対し、正確な計算については、トレーニングされた言語と異なる言語で出題をされた場合に、正答率が下がる、ということが明らかになったのだ。
さらに、Dehaeneらはこのタスクに取り組む子どもたちの脳活動を計測し、正確な計算のあいだは主に言語と関係する左前頭葉が活発に活動し、曖昧な計算のあいだは空間の知覚と関係する頭頂葉の一部が盛んに活動していたことが分かった。
この実験から、曖昧な計算が主に言語とは独立な空間的能力に依存しているのに対して、正確な計算は言語的な能力に依存したプロセスであろうということが推測できる。
数学的な思考には、曖昧な計算を可能にするための空間的な能力と、正確な計算を実現する言語的能力がハイブリッドに使われていて、どちらか一方だけでは成り立たない、と考えるべきなのかもしれない。
いずれにせよ、数学的思考は脳の中に閉じた単線的な過程ではなく、様々なプロセスが相互に関与しながら実現されるダイナミックな過程と見るべきであろう。
数学が脳の中にあるのではなく、脳の外側に構成されたものであり、数学的思考が脳にとじていなくて、脳と数学との相互作用の中ではじめて実現される過程だという視点に立つとき、数学と私たちの間の興味深い関係が見えてくる。
私たちが「よりよく思考したい」と欲望すればするほど、脳の欠陥を補うべく、新しい数学が次々と構成されていき、私たちと環境との「あいだ」で、様々な数学的思考が形成されていく。その結果として、数学そのものの中に、私たちの思考の傾向や歴史が刻印されていくことになるのだ。
プロローグの中で述べたとおり、人を他の動物と区別する最大の特徴は、私たちが「心」を持つ生き物であるという点であろう。そして、人として生きることの困難は、私たちがまだこの心をどのように扱うべきかを理解するに至っていないという点に集約される。
しかし、心を理解することには本質的な困難がつきまとうのであって、それは私たちの心を理解しようとしているのが私たちの心に他ならないということに由来する。
この自己参照性の困難を乗り越えるために、私たちは、私たちの心のありようを映しだす鏡の役割を果たす外部を、何かしらの方法で拵える必要がある。
そして、これまで述べてきたとおり、数学は、まさに私たちの思考を拡張する道具となるべく私たちと共進化してきたものとして、私たちの心の鏡になるべき対象であろう。
以下では、実際に数学の中に、どのようにして私たちの心の様子が映り込んでいるかを具体的に見てみたい。そうしながら、数学を通して心を理解するとはどういうことかを実践してみたいと考えている。