もちろん、数学的思考とてその例外ではない。

数学者の思考している様子を観察した場合、彼はまず間違いなく鉛筆かチョークを片手に持ち、紙か黒板にいろいろな式を書き付けながら思考を進めていくであろう。

このとき、数学者は頭の中で何かを理解し、その結果を黒板に書き写しているというよりは、黒板に式を書きつけるという行為そのものが、何かを理解するためのプロセスに組み込まれてると言った方が正しいだろう。

実際、リチャード・ファインマンは、あるとき、自分の研究ノートを見た友人に「これはファインマン氏の思考の記録ですね!」と言われて、「僕は思考を紙に記録したのではない。紙の上で思考したんだ。」と答えたそうだ。 つまり、紙と鉛筆とは独立に脳内で思考が完結していて、それを紙に書き写したというのではなく、脳と紙と鉛筆のやりとりそのものがファインマンの思考だったわけである。


このように、数学的思考も決して脳の中で閉じたプロセスなのではなく、二足歩行やマグロの泳法などと同様に、環境や身体が持っている能力を最大限に生かしながら、脳と身体と環境のやりとりの中ではじめて実現する行為なのである。数学的思考のこのような意味での身体化された側面はいくら強調してもたりないくらいであるが、例えば私たちがごく日常的に紙を使って筆算をしているのも、紙という媒体に記憶を外部化することで脳への負担を軽減するためであるし、筆算のシステムそのものも、脳そのものには困難な「かけ算」という仕事のプロセスをシステムに外部化してやる方法である。

実は、近年の研究により、筆算やかけ算よりもさらに基本的な、自然数の概念そのものも、私たちの脳の能力を延長すべく、脳と環境との「あいだ」に構成されてきたシステムであるということが分かってきているのである。1

以下では、そのことを詳しく見てみたい。