こうしたことを考えながら、改めて自分がしている数学というものを振り返ってみると、行為としての数学にもまた、時間としての側面があるということに気がついた。

たしかに、数学的な命題や定理そのものには時間が流れていないし、時間とは独立に成立するということは、論理的命題を論理的たらしめている重要な性質である。 しかし、数学的命題や定理の集合は数学の本体ではない。

ちょうど生物の骨格が生命そのものではないように、定理の集合も数学そのものではないのだ。

数学者がこれまで証明してきた定理の全体は、これまで数千年間連綿と流れ続けてきた「数学」という時間の刻印ではあっても、時間そのものではない。

それでは、定理として時間を刻印していく当の「時間としての数学」とはどのようなものであろうか。

数学という行為の起源については、改めて吟味をしてみたいと考えているが、それが人が自己意識を獲得した時点と深く関係しているであろうことは疑いない。なぜなら、意識について意識する自己意識の能力を獲得してはじめて、人は自らの思考について思考できるようになったからであり、自らの思考について思考し、その思考を反省するようになった人は「より明晰な思考」ということを欲望するようになったに違いないからだ。

生命が、個体と環境の調和の理想的極限として「存在の永続性」を欲望するように、ヒトの思考もまた、論理とリアリティのあいだの均衡の極限として「思考の明晰性」を希求するようになった。

ところが、存在の永続性がそれ自身不可能な欲望であるのと同様に、明晰な思考もまた不可能な欲望であった。かくして、明晰な思考という不可能な欲望を契機として、数学という時間が流れ始めることになる。