「自」という字は日本語で「おのずから」とも「みずから」とも読む。これは一見して異なる二つの日本語に、同じ「自」という字を当てようという古代日本人の配慮があったことを意味している。その背後には、どのような考えがあったのだろうか。
大野晋氏によると「おのずから」と「みずから」に共通している「から」は、国柄や山柄の「柄」であって「おのずから(=己の柄)」「みずから(=身の柄)」であるという。 したがって「おのずから」も「みずから」も、ともに「自己の柄(=自分自身に起源をもつ本性)」を意味する日本語で、その「己」の側面に寄るのと「身」の側面に寄るのとで、ふたつの表現が使い分けられていたと考えられるのである1。
だとすると、この「自」という字の中には、こころを持つ存在として生きる私たちの困難が端的に表されていると言えるのではないか。
私たちは、常に「生かされている(=おのずから)」と同時に「生きている(=みずから)」存在である。「自」という一字の中に「みずから」と「おのずから」の両側面が共存しているように、私たちもまた、私たち自身のうちに「みずから」と「おのずから」の双極を抱えて生きている。
これは「こころ」を通して「生かされている自分」を意識し、その意識に基づいて次の生き方を「みずから」考えることができるようになった人になって、はじめて抱え込むようになった双極である。
ヒトとして生きること、あるいは心を持つ存在として生きることの困難は、同じ個体に共存しているこの「おのずから」と「みずから」の双極と、そのあいだの葛藤ということに集約されるのではなかろうか。
私たちは、ヒトとして存在しはじめたその瞬間から、相矛盾するこの二つの傾向のあいだを引き裂かれそうになりながら、そのあいだに立つものとして生きることを余儀なくされているのである。