前節では、私たちが「おのずから」と「みずから」という二つの方向を抱えていることを、人体の持つ植物性と動物性という生物学的な特性の共存のうちに見出した。
「おのずから」と「みずから」という、異なる傾向が交互にあらわれるリズムを、私たちは日々何気なく「呼吸」というかたちで刻んでいる。ただし、呼吸といっても様々である。ひとつひとつの細胞が行っている呼吸(=内呼吸)もあれば、水中の生物の鰓呼吸もあり、私たちのような地上の生物の肺呼吸もある。同じリズムを徹底して刻み続ける、水中の鰓呼吸の均質性を考えると、私たち人間の呼吸ははるかに変化に富んでいる。息を呑んだり、息が上がったり、ほっと一息ついたり… そこには様々な呼吸の表情がある。
肺呼吸が鰓呼吸と比べて変化に富むのは、その背後にまったく違った筋肉が働いているためである。一般に動物の身体は、脊椎動物であれ無脊椎動物であれ、すべて一本の消化管が体壁の鞘におさまっているような構造をしている。この内外二重の筒のうち、内側の腸管の筋肉は「呼吸・循環・排出」という植物的機能の原動力となることから「植物性筋肉」とも呼ばれ、それに対して外側の体壁の筋肉は「感覚・興奮・運動」を担うことから「動物性筋肉」とも呼ばれる。一般に、植物性筋肉は運動がのろいぶん疲れ知らずで、動物性筋肉は運動はすばやいが、はなはだ疲れやすい、という傾向がある。
実は、ヴァリスカン造山運動期に動物が水から陸へあがったとき、呼吸の座が鰓から肺にうつるとともに、呼吸筋そのものにも大きな革命が起こった。鰓がつぶれて肺ができたとき、鰓の筋肉はばらばらに開散してしまい、代わりにそれまで呼吸とはなんの関係もなかった胸の筋肉が新しく肺を動かす呼吸筋として動員されるようになったのだ。 したがって、鰓呼吸を担うのが植物性筋肉であるのに対して、肺呼吸を担うのは動物性筋肉ということになる。
くびから胸腹にかけての体壁筋を呼吸筋として導入することになったのは、肺自体の力だけで吸ったり吐いたりすることが不可能だったための窮余の策だったのである。結果として、私たちは、疲れやすい、まったく呼吸には不向きの動物性筋肉を使って呼吸をする破目になってしまった。
こうして私たちは陸上に進出した代償として、不慣れな呼吸を続けていくことを余儀無くされたわけだが、本来は植物性筋肉が担っていた呼吸を、随意筋である動物性筋肉が担うようになってしまったというところに、私たちの存在の抱えている「矛盾」の萌芽がすでに見いだせるかもしれない。