文字の発生ということを考えるとき、初期の文字が、その使用者や使い道などの点において、現在の文字とは大きく異なっていたということを確認しておく必要がある。
実際、登場したばかりの文字は、複数の用法があって曖昧すぎたり、構造が複雑すぎたりして、人間の発話を記述する体系としてはきわめて不完全なものであった。最古の文字であるシュメール人の楔形文字などは、名前、数字、計量単位、加算名詞、いくつかの形容詞などしか扱うことができなかった。
また、初期の文字は、その使い手もきわめて限定されていて、文字は基本的に王宮や寺院に仕えていた書記だけが読み書きできるものであった。線文字Bなども、少数の上級官吏以外が使用していた形跡は残っていない。
さらに、初期の文字は、その使い道もまた限定されていた。例えば、紀元前3000年頃、シュメール人たちが最初に残した文書は、宮殿と寺院の官吏がつけていた帳簿であったし、シュメール人の街であったウルクの遺跡から出土した粘土板は、その90パーセントが、納入された物品、支払いを受けた労働者の氏名、配布農作物についての事務的な記録などであった。シュメール人が神話などを書くようになったのは、表意的な表記から表音的な表記に移行してからのことである。
ミケーネ時代のギリシア人もまた、神話を記することはなかった。クノッソス宮殿から出土した線文字B粘土板のうち、三分の一は、宮殿に納められた羊の頭数とか羊毛の量を記録したものである。線文字Bは曖昧性がきわめて高かったため、その用途が、宮殿での記録のように、前後の文脈の情報からの推測で曖昧性が解消できるような分野に限られていたのだ。
このような事情を考えると、紀元前8世紀に、ミケーネ時代の線文字Bを失って以来文字を持たなかったギリシアに、線文字Bに比べてはるかに使い勝手のいい表音文字であるアルファベットが流れこんできたことの意味は大きいし、アルファベットの獲得が、ギリシア哲学の形成に与えた影響も決して無視できないものであったに違いない。
やはり決定的だったのは、子音文字と半母音文字しか持たなかったセム語のアルファベットに対し、ギリシア文字が母音文字を文字列の中に入れてしまったことであった。それまで母音は、それを読む者がアタマの中、あるいは口で補って読むほかなかったのが、母音文字の導入によって、アルファベットの発音が、事実上、目の前の文字列以外の文脈からは完全に独立したかたちで決定できるようになったのである。
母音文字を持つギリシア文字の登場によって、はじめて「ことば」の世界を、聴覚の世界から視覚の世界へ、正確に写しとる方法が確立されたと言えるだろう。
こうして導入されたギリシア文字は、母音の発音の曖昧性がないため、特別な知識や経験を持たなくとも発音ができるという意味で、それまでの文字システムよりもはるかに敷居の低いものであった。実際、ギリシア文字の登場以降、宮殿に仕える書記だけでなく、ふつうの人びとが文字を使って詩や小話を自宅で読むようになった。
同時に、ことばの聴覚的側面だけを純粋に抽出できるアルファベットシステムは、それまで発音をしたことのない外国語でさえ記述できてしまうために、他国との言語的な接触をも促していくことになる。
こうして、それまで特別な人にしか用いられなかった言語が、徐々に多くの人びとの間に広がっていったことにより、それまでは基本的に聴覚的な体験であった言語体験が、徐々に視覚的な体験へと変質していったであろうし、それとともに言語を通して体験される世界は本格的に離散化されていくことになった。
そのように考えてくると、紀元前8世紀のギリシア文字の発生と、その後のミレトス学派やエレア派の一元論者の出現とのあいだには、密接な関係があるように思えてくる。おそらくは、ギリシア文字の発生によって進行しはじめた「世界の離散化」の傾向への抵抗が「世界を分けるな」という一元論者の思想を生む契機となったのであろう。
また、アルファベットを手にしたギリシア人にとっては、もはや原子論を発想するのも時間の問題であった。なぜなら、アルファベットは言語における原子論(atomism)の実践に外ならないからだ。