アルファベットの登場によって、それまでは「発する」ものであった言語を「書く」ということがはじまり、それまでは「聴き取る」ものであったことばを「読む」ということができるようになった。
こうして、声の世界から文字の世界へとことばが移行していくとともに、私たちの意識もまた大きく変容していったと考えられるが、もはや書くことも読むことも当たり前になってしまった私たちにとっては、「書くこと」が発明される以前の「声の世界」を思い描くことは容易ではない。
書くことと読むことにすっかり慣れ親しんでしまった私たちにとって、言語は多かれ少なかれ視覚的に体験されるものであるが、文字以前の人びとにとっては、言語はより純粋に聴覚的な体験であったはずである。
そこで、文字以前の世界への想像力を逞しくすべく、あらためて「音を聴く」という聴覚体験の特異性について整理をしてみたいと思う。1
音の時間性
「見えるもの」は止めることができる。実際、写真や写実的な絵画の技法は、目の前で進行している視覚的世界の時間を静止させる技術に外ならない。
一方で「聴こえるもの」は決して止めることができない。写真が「見えるもの」を静止させるように、「聴こえるもの」を静止させようとしたら、そこには沈黙しか残らないだろう。Walter Ongは”Sound exists only when it is going out of existence”(音は消えつつあるまさにその瞬間においてのみ存在する)と言った。聴覚体験は本質的に時間的な体験なのである。
内部から響く音
目の前の対象の「内側」の情報を教えてくれるのが音である。 例えば、目の前にある壷の中に、水が入っているかどうか確かめたければ、壷を叩いてみて、その響きを聴きとればよい。見ただけでは分からないその対象の内部の情報が、音の響きとして引き出される。
もちろん視覚によっても目の前の対象の内部について知ろうとすることはできる。例えば、解剖によって身体を開けば、心臓の様子を直接見ることができる。
しかし、私たちは相手の胸に耳を当てることで、その人の内側で脈打つ心臓の鼓動を「聴き取る」こともできる。聴覚は、相手を傷つけることなしに、その人の内部に触れる方法である。
声は人の身体の内側から響く音であり、私たちの生命を支える呼吸のリズムとともに響く。息を吸いながら声を出すということは普通しないから、声は常に呼息とともにある。
呼息に乗って「聴こえる」のは、ヒトの体内で展開される調音現象の子細である。ヒトが声を発するとき、口唇や舌の調節はもとより、大小100種類以上の筋活動が動員されていると言われるが、声は、発せられたことばそのものが指示する情報を伝えるのみならず、それとともに、発話者の身体の内部で進行する生命活動の詳細をも表出させるのだ。
音に没入する
音は四方八方から響いてくる。ある特定の方向の音だけ拾うということは普通はできない。私たちは、常に音の世界に投げ出されていて、そこから自分を切り離すということができないのである。
一方で、視覚的な体験においては、視点がひとつ固定されている。同時に四方八方を眺めることはできなくて、四方八方を見るためにはその都度、目を動かしたり、頭を動かしたりする必要がある。このとき「見るもの」と「見られるもの」とが切り離される。
聴こえる世界に全身で没入する、ということがありえても、見える世界に全身で没入するということは困難である。聴覚が世界と一体化する方法であるのに対して、視覚は世界と距離をとる方法、とみることもできる。
視覚は明瞭であり、差異を強調することで、世界の分割と離散化を促す。一方で、聴覚は境界を曖昧にし、調和や一体化を促す。