現代文明はコンピュータや自動車などをはじめ、無数のテクノロジーを開発してきた。特に、活版印刷とコンピュータの発明は、それぞれ人類史の転換を促す革新的なテクノロジーであったことは、広く認められているところである。
しかし、活版印刷技術やコンピュータの発明に先立ち、人類史に決定的な影響を与えたのが「文字」や「書字」というテクノロジーである。活版印刷やコンピュータは、動的な「音」の世界を、静的な「空間」の世界に写像し、生きられている生身の現在から「ことば」を切り離すという「文字」が持っている機能を、あくまで継承している技術と見るべきであって、その根本にはテクノロジーとしての「文字」ということがあるのである。
日常、当たり前のように使用している「文字」をテクノロジーとしてみる、ということには違和感を覚えるかもしれないが、文字との新鮮な遭遇を体験した当時の人びとからすれば、文字はあくまで人が生み出した人工物であったし、人の能力を補い拡張するテクノロジーに外ならなかった。
実際プラトンは『パイドロス』の中で、文字は人間の能力を衰えさせるとして痛烈に批判しているが、その表現は、まるでコンピュータを「行きすぎたテクノロジー」として批判する現代人の声を聞いているようである。
プラトンの主張を要約すると、下記のようになる。
「本来は心の中にしかないものを、さも外界に実在するかのように扱う文字は、非人間的である。また、文字は人の記憶力を衰えさせる。文字という外部のリソースに依存するようになることで、本来持っている記憶力は着実に低下していくだろう。それに加えて、文字は私たちの働きかけに対して応答できない。書かれた文字に質問を投げかけても、文字はまるで脳なしのように、同じ返答を繰り返すだけである。」
プラトンは、まさに現代人が「コンピュータ」という新奇なテクノロジーを恐れるように、文字というテクノロジーを恐れたのである。
しかし、皮肉なことに、こうしたプラトンの文字に対する分析的な批判や、論理的な議論の展開ということを可能にしたのが、外ならぬ文字だった。