ここまでで、見ることと聴くことの差異について簡単に整理をしてきた。声の文化から文字の文化へと移行していくととともに、言語体験は、聴くことから見ることへと重心が移っていくことになるわけだが、こうした移行は私たちの意識にどのような変化を与えてきたのだろうか。


ことばの力

ヘブライ語のdabarは「ことば」を意味するとともに「出来事」を意味する語である。ことばが声であった時代、ことばは単に思考を記述する記号ではなく、ことばそのものがひとつの出来事としての力を持っていた。

実際、声は常に力とともにあった

例えば、仕留めたばかりの目の前の猪が、もうすでに息絶えていたとしても、その猪を見たり、触ったり、その匂いをかいだり、味わったりすることはできるかもしれない。しかし、その猪が声を発したならば、それは猪がまだ生きている徴であり、そこに生命が活動している証である。

声とは、生命の力によってはじめて響くことのできる音なのである。


記憶の方法

文字の登場によって大きく変化したのは、私たちの記憶の方法である。書くことによって情報を記録することができなかった時代、大切な情報は、語り継がれることによって記憶された。語りによる記憶を支持するために、一般に定型や繰り返しや常套句が好まれ、また大きなジェスチャーや拍子や音楽などの助けが情報を構造化するために用いられた。

記憶を維持するという側面からいえば、新しい表現や発想を導入することはリスクであったから、文字の発生以前の言語表現には、基本的に保守的な傾向がある。当然、古くからの記憶を語り起こすことのできるお年寄りが、社会の中では重要な位置を占めることになった。

ところが、文字が発明されると、記憶が文字システムを通じて外部化できるようになったので、それまで記憶に割かれていた労力が、より創造的な方向へ向けられるようになる。同時に社会は、情報をより多く記憶しているお年寄りよりも、新しい表現や発想を提示できるより若い人の存在を重視する傾向を見せるようになっていく。


文脈からの自由

文字が発明される以前の世界で「学ぶ」ということは、知りたい対象と寄り添い、その対象とともにあろうとすることであった。ところが、文字が登場すると、「知るもの」と「知られるもの」とが切り離され、「客観性」ということが発想されるようになる。

また、声の世界において、ことばの意味は、そのことばが発せられた文脈からは決して切り離すことのできないものであった。ことばは、他のことばとの関係性の中からその意味を獲得するのみならず、そのことばが発せられたときの話者の表情や身ぶり、イントネーションや抑揚などの総体として立ち上がるものであった。

ところが、文字の発明によって、特にアルファベットの登場によって、音の世界を視覚の世界へ写しとる技術が開発されると、ことばそのものも、具体的な出来事や文脈とは独立に、その意味を得ることができるようになっていった。

純粋に語と語の関係のみによってことばの定義を与えていく「辞書」ということが構想されるのも、ことばが発明されたはるかに後の出来事である。