ダマシオの言うとおり、情動が外界の刺激に対する身体レベルでの化学的あるいは神経的反応のパターンであるとするならば、私たちが意識するとしないとに関わらず、私たちは常に多様な情動を抱えて生きている。

この世には情動的に中立な対象はなく、あらゆる外界の対象が、私たちの身体になんらかの情動をもたらす。例えばむかし苦手だった先生に似てる人が電車で目の前に座っていたら、無意識のうちにも身体が反応して「不快な気分」になるかもしれないし、いつも楽しい時間を過ごしてきた公園の横を通り過ぎたときには、そのことに気づかないうちに「愉快な気分」になっているかもしれない。

身の回りにあるあらゆる対象が、私たちの身体を刺激し、それらの刺激に対する反応として、種々の情動が立ち上がる。これらの様々な情動が織り成すパターンが、そのときそのときの私たちの「気分」を構成する。
私たちが普通、喜び、悲しみ、恐れ、怒り、驚き、嫌悪などと呼んでいる「1次の情動」の背景を流れるこうした漠とした「気分」のことを、ダマシオは「背景的情動(background feeling)」と呼んだ。

普通私たちは、感情や心の働きを担っているのは主に脳(=神経系)であると考えているが、生物において情報を扱うことができるシステムは神経系だけではない。実際には、多くの生物は神経系の他にも免疫系や内分泌系を備えており、これらの系もまた生物の情報処理を担う重要な役割を果たしている。

神経系を持たない生物の「感情」ということはありえないかもしれないが、神経系を持たない生物においても、例えば内分泌系に宿る「背景的情動」ということは十分考えられるだろう。内分泌系を有する植物などは、こうした「気分」の世界を生きいているのかもしれない。

いずれにせよ、私たちが普通「思考」と呼ぶ、高度な情報処理や認知の登場に先立って、「気分」や「情動」という、よりプリミティブな思考の形式が存在していたということをここでは確認しておきたい。
いわゆる「あたま」をつかった思考が可能になる前から、私たちは「からだ」をつかっていろいろの思考をしてきたのである。