連続的な対象とは、どこまで分割をしてもそれ自身の性質を失わないようなもののことを言う。一方で、分割をしていくとその対象がその対象らしさを失ってしまうような場合に、それは離散的な対象であると言われる。
同じ物であっても、見方によって連続的にも離散的にもなりうる。 例えば、1万円札は切り刻んでしまえばもはや一万円札ではなくなってしまうので、分割によってその性質を失うような離散的な対象である。しかし、同じ一万円札も、単なる物質であると考えるなら、どこまで分割していってもなお物質としての性質を失わない(厳密にいえば、ある段階で物質としての性質すら失うかもしれないが)という意味で、連続的な対象ということになる。
このように、連続と離散の区別は一般に認識の作用によるものであって、対象そのものに内在する性質ではない。特に、私たちが何らかの対象に名前をつけると、途端にその対象は離散性を獲得する。したがって、言語の発生と、連続/離散の差異の発生には深い関係がある。
本来は分割不可能である対象を言語によって記述しようとするとき、その対象は離散性を帯びるようになる。もともとdiscrete(離散)という語はラテン語のdiscretus(分離する)という語に由来するが、同じdiscretusから派生したのがdiscern(差異を認識する、理解する)という語である。外界の対象を理性的に認識しようとするとき、そこには否応なく離散性が立ち上がる。
それまで経験的には当たり前だった事実を言語化しようとしたときにタレスが直面した戸惑いは、「からだ」が知覚する連続的な世界から「あたま」が物語る離散的な世界が離陸していこうとする瞬間の戸惑いでもあったのだ。
この「連続と離散の分離」という事態に対して、ピタゴラス教団は「万物は数である」として徹底抗戦を宣言した。すなわちピタゴラスは、連続的な「万物」の世界を、離散的な「自然数」の世界に回収してしまおうと考えたわけである。
ところがこのピタゴラスの夢は、ピタゴラス自身の弟子による通約不可能数の発見によって打ち砕かれることになる。「万物」の基本であるはずの、幾何学的な量ですら、自然数の比としては表現し尽くせないことが明らかになってしまったのである。
このピタゴラスの敗北は、その後連綿と続いていく「連続と離散の融合」という夢に向かって突き進んでいく西洋数学史のまだ序章に過ぎない。