ピタゴラスより一足先に古代ギリシアで活躍をしたミレトスのタレス(紀元前624-紀元前546)という哲学者がいる。アリストテレスはタレスを「最初の哲学者」と評し、ラッセルは「西洋の哲学史はタレスにはじまる」と言ったが、タレスははじめて「証明」ということを考えた人物でもある。

古代ギリシア以前の、エジプトやバビロニアで栄えていた数学は、あくまで実用に根ざした数学であったから、何かが「分かる」ということは、あくまで経験に基づく納得を意味した。したがって、なんらかの数学的事実を「納得」するために絵を描いてみたり、作図をしてみたりということはあったであろうにせよ、ことばを使った厳密な「証明」ということが構想されることはなかった。「定理」ということば自体、もともとラテン語のtheorein(=よく見る)ということばから来ているのだが、当時は「見れば分かる」という直感的納得こそが、数学的理解の基本にあったのであろう。

ところが紀元前6世紀のミレトスのタレスに至り、はじめて言語による「証明」ということの必要性が説かれるようになる。

タレスが証明したと言われているのは以下の4つの定理である。

・円は直径によって二等分される
・二等辺三角形の底角は互いに等しい
・対頂角は互いに等しい
・直径に対する円周角は直角である

円に直径を引いたらその円が半分になることや、対頂角が互いに等しいことなどは「見れば分かる」と言って片付けてしまいたくなるような事実である。それを、敢えて証明しなければならないと気づいてしまったタレスに、私は「あたま」と「からだ」の分離症状の発症を見ずにはいられない。

直感的には自明な事実であっても、言語や論理で語ろうとすると、途端に自明でなくなるような命題というのはいくらでも存在する。それまで当たり前だ、と思っていたことも、論理で改めて語りなおそうとすると、途端にそれまでの当たり前さが影を潜めてしまうのである。そうした「戸惑い」の原型を、紀元前6世紀のタレスに見ることができるのではないだろうか。